
2025年2月5日、メディアの正式なリリースを記念し、「ウェルビーイングな生き方、幸せの見つけ方 - アートを通じて“心の幸せ”について考える -」をテーマに、第一回目のトークイベントが開催されました。
特別ゲストにお迎えしたのは、京都「両足院」副住職 伊藤 東凌さんと「田尾企画 編集室」代表 田尾 圭一郎さん。田尾さんは8 Hachi Mediaで「Social Art Library / 天球観測のはじめかた」という連載をご寄稿くださっています。禅とアートを組み合わせた数々の活動をされている東凌さんとの、トークをお楽しみください。
特別なものや限られた人のものという印象を持たれることのあるアート。しかし、改めてその意義を知ると、心の平穏や精神的豊かさを育む大切な要素であることに気付かされます。
8 Hachi Mediaでは人のサスティナブル、すなわち心の豊かさも大切にしたいと考え「感じる」というカテゴリーをつくりました。そのコンテンツの一つが田尾 圭一郎さんにご寄稿いただいている「Social Art Library / 天球観測のはじめかた」(以後「 天球観測のはじめかた」)です。
なぜ「天球観測」をしようと思ったのか、そこには物事の捉え方に対する違和感がありました。

田尾
「天球観測のはじめかた」を書くきっかけは、僕らが見ている世界は平面的だなと思ったからなんです。このモニターもそうですし、スマートフォンやパソコンといった物理的なもの、画像や映像といった情報だけで物事を見ている。
でも現実は光が射し込んでいたり、コーヒーの香りがあったり、隣に人がいる気配がしたり、いろんなものを感じながら生きていますよね。世界の感じ方をもっと立体的に広げられないだろうか、という問題提起から始まりました。プラネタリウムのように天球の中心から世界を観測していると、実感したかったんです。
伊藤
確かに、慣れきった考え方になるのは物理的に見えている世界が、自分の物事の捉え方になるからかもしれませんね。そこから脱却するには、鳥の目だったり、虫の目だったり、魚の目といった様々な目が必要になるんじゃないでしょうか。鳥の目というのは、遠くからマクロ的に物事を捉えること。虫の目だったら苔の中がジャングルにいるみたいに見えるかもしれない。魚の目だったら流れを読む力が求められる。
そういった視点の一つとして立体的に捉える天球もあり、視点が行ったり来たりすることで、偏りがあったものから、広がりが生まれていくようになる。そうやって変わっていくための可能性があると感じますね。
田尾
あと、8 Hachi Mediaは「循環」を大切にしていますが「持続可能」について考えた時に、これは誰にとって、何なのかをもう一度、問いかける必要があると思ったんです。アートの世界では「非人間」と言いますが、人間中心ではなく非人間(人間以外の存在)も含めた主体による表現とは何かを語ったりします。人間以外の存在の視点からも天球を観測し直したら、もっと世界をゆたかに知覚できるのではと考えたことも「天球観測のはじめかた」の出発点にありますね。
伊藤
非人間の視点からみるというのは具体的には、何をどう捉えたりすることなのでしょうか?
田尾
例えば青森のある山に行ったときのことですが、山並から地層やプレートの動きが目でわかると、何万年というマントルの視点を持つことができますよね。あるいは、それを空から見ている鷲はどう全体を捉えているんだろうとか。これは天球観測が特殊なのではなくて、アニミズムの根付く日本には元々あったと感じているんです。だからこそ”過去の日本人らしさ”とせずに、現代に評価し直そうと思ったんです。実態は「子どものお迎え間に合うかな」とかで毎日ワタワタしている現実社会があって、そこにどう活かせるかもひとつのゴールだと思います(笑)。
東凌さんが現在両足院で行っている取り組みの原点は、もっと多くの人が自己表現できるように勇気づける活動をしたいという想いが原点なのだそう。難しいと感じる人も少なくありませんが、その障壁を打破していくのが禅の教えとして大切だと考え、アーティストをお寺に招き、その空間を使ったアーティストたちの表現を通じて、自己表現することへの関心を高めてもらう活動をされています。
その一例として紹介されたのが「お茶席」×現代アート。
「お茶席」自体に馴染みがない人もいる中で、一体どのようにしてそれが「表現」と関わってくるのか。そこには意外な楽しみ方があったのです。
伊藤
「お茶席」というとハードル高く感じる方もいらっしゃると思います。障子という紙一枚で包まれる不思議な空間。そこにささやかながら飲食がある。そこにさらにアートがあると密接なアート体験になります。
お茶席って本来はもっと瞑想的なもので、茶席に行く前からそれは始まっています。行すがら庭園の草木に触れたり、匂いを嗅いだり感性を使ってもらう。茶碗と向き合うことで、対話が生まれる。
エリザベス・ペイトン(主に絵画、ドローイング、版画を手がけるアメリカの現代アーティスト)と一緒に展示会を開催したときは、彼女の作品をお寺の中にある古い木材と組み合わせた形で展示しました。抽象画に見えますが、実は具象でエルビス・プレスリーを描いた肖像画。それが300年前のものと組み合わさって、現在と過去が交差している状態にしました。

Installation view, Elizabeth Peyton: daystar hakuro, Ryosokuin Temple, Kyoto, Japan, Sep-tember 8—24, 2024
Photos by Takeru Koroda
Courtesy David Zwirner
田尾
世界的にも著名な作家ですが、より主観が際立って見えますね。これらの取り組みを行う際はエクスペリエンス・デザインも設計しているのですか?
伊藤
心がけています。
田尾
日常的でない身からすると茶席には厳格で近づきがたい印象がありましたが、むしろその厳格なルールやフォーマットのなかで遊んでいるというか、展示自体を芸事のように表現・クリエーションのひとつとして楽しんでいるような印象を受けますね。
伊藤
伝統という強いコードがあるからできることだと思います。だからモード(流行)を取り入れてもコードが壊れない。
お茶席での密接なアート体験。そこから見えてきたのは創造性の循環でした。

田尾
普段、無機質な白い壁に作品が展示されている「ホワイトキューブ」と言われるものが、作品を観るのには適していると思います。ただ両足院みたいな場所だと場が持っている解釈と作品が持っている解釈がかけ合わさってすごく解釈がふくよかになるというか、考え方の幅が広がるように感じますね。
(茶席の事例のように)型として表現を楽しむというのは、元々茶室文化にあったものなのでしょうか?
伊藤
安土桃山時代でも、大名たちの創造性を発揮する場でありましたね。利休が亡くなられて何代か経て変わっていきましたが、元々がかなりクリエイティブな場だったんだと思います。
田尾
なるほど。8 Hachi Mediaのテーマに「循環」がありますが、それはRe-use(再利用)という物理的な話だけでないと、お話を伺っていて思いましたね。型があって、そこが巡り巡って、新たな表現や自分自身が加わって再制作されているのも循環というか。型と時代性・自己表現が掛け合わされて創造性が循環し続けているように感じます。
両足院が行っている新たな取り組み。そのAwe(オウ)体験※から得られることの一つとして話題に上がった「Self-lost(セルフロスト)」という感覚。聞き慣れないようで、日本人の文化に馴染みのあるこの感覚は私たちに、何をもたらすのでしょうか。
※Awe体験
大自然などで“果てしないもの”を前にしたときに、自分の存在の小ささを知り、感動、畏怖、驚きの感情が湧きおこること。 Awe体験時には脳が活性化していること、心や身体、社会へも良い影響があることが様々な研究からわかってきている。
伊藤
今、取り組んでいることですが、両足院の外観や景色を映像データ化して投影することで、世界中のどこでも両足院を持っていくということを始めています。天橋立や渋谷のスクランブル交差点などでも実施しました。自然との距離を取り払い、自分と融合していくという試みです。

ARTWORK BY THINK AND SENSE / Shuhei Matsuyama
田尾
面白いですね。近頃Awe(オウ)体験を調べているのですが、量的にAweをどういう風に共有するのかという量的調査を試みたときに、その調査項目の中に「Self-lost」、つまり自分という存在がなくなる感覚があるか、というものがあります。
日本人は禅の教えの影響などにより文化的に、自我を手放す的なことには馴染みがあると思いますが、それが研究としてアメリカ中心で考えられるようになって、いよいよ万人と共有できる感覚になろうとしているように見えて面白いです。
伊藤
ありがとうございます。そうですね。「Well-being」(ウェルビーイング)という考え方からだと、教育は自己成長や自己確立を目指すこと、「Self-development(セルフディベロップメント)」が多いと思います。学ぶというのは何か目的に向かって階段を歩き続けているような感覚がありますよね。でも図らずも出来上がってしまった構造物があって思考が嵌ってしまうことがある。そこからSelf-lostのように、脱構築して、解体して、もう一度階段を降りるようにして、囚われた状態から抜け出すことが最終的な学びの到達地なのかもしれません。
Self-developmentだけでなく、Self-lostも大切と言いますか。
田尾
0か100かという話ではありませんよね。芯があるからロストできる。贅肉を削ぎ落として芯を強化できるか、が大切な気がします。

自分がなくなる感覚、Self-lost。学びを深める上でも重要な感覚ですが、新たな視点・考え方を知ったときに大切なこと、それはシンプルだけれども意識しなければ忘れてしまうかもしれないことでした。
田尾
僕は趣味でオーケストラをしているのですが、演奏すればするほど、自分がなくなる感覚があります。こういう演奏をしたい、という考えがなくなり目の前の楽譜に忠実であろうとする。それはSelf-lostの感覚ですよね。そうなるとベートーヴェンに近づいていく感覚があって、恍惚感を感じるんです。
そういった感覚を色々な人と共有できるようになるひとつの空間として茶室があるのかもしれません。
伊藤
芸事を極めると創始者の息遣いが乗り移ってくるような感覚になる。それって気持ちの良いSelf-lostですよね。Self-lostとSelf-developmentってどっちが良いのか、という話になりますが田尾さんがおっしゃってくださったように、どちらも大切というのが、かなり大事なことで私も同感です。禅は手放せ手放せとlostに行き過ぎることもありますが、皆で楽しむことも大切にしたいですね。

田尾
「アートシンキング」が5年ほど前に流行した時に、講演を頼まれることがあって話していたのですが、創造的であることは素晴らしいのだけれども、それまでのデザインシンキングや問題解決も重要なこと。使い分けが必要なんだと思います。
実際、アーティストは使い分けが上手いんですよね。スケジュールや予算、もろもろの上限をやりくりしてうまくやっている。両輪は大切です。
伊藤
1人で全部をやりきる必要はありませんからね。大変ですから。チームでやっていきましょう(笑)。
田尾
僕の普段の仕事のコンセプトは「アートの社会実装」というもので、アートという非日常と触れ合った後、日常に何を残すことができるのかということを考えています。ネルソン・グッドマンというアメリカの哲学者が『世界制作の方法』という著書で「世界は一つではない。何百通りもつくれる。」と述べているのですが、両足院のプロジェクトは、いくつもの両足院を作り出せて、それぞれに可能性がある。同じように、いくつもある可能性の中で、自分はどの可能性に主体的に関わるかを考えてみる、というのも日常に何かを持ち帰るための一つのきっかけになると思いました。
伊藤
目線・視点が増えるほど面白いでしょうね。そのためにはアートのように非日常なものに触れていただく機会が必要だと思います。そこから家に持ち帰っていただくためには、距離がある場合は、会場にちょっと休める場所があるといいですね。そこで休みながら、考えてみて、また非日常を体験して、というのを繰り返していくと違うのかなと。家の中にアートを取り入れて、家でも非日常トリップするのも良いと思います。

プロフィール
京都「両足院」副住職 伊藤 東凌 様
建仁寺派専門道場で修行後、2005年より両足院で坐禅指導を担当。伝統を基盤としながら、現代アートとの融合や、海外での禅セミナーの開催など、幅広い活動を展開。心を整えるアプリ「InTrip」の開発や、企業向けウェルビーイングメンターとしての実績を持つ。
「田尾企画 編集室」代表 田尾 圭一郎 様
「田尾企画 編集室」代表。アートの企画・編集・コンサルティング/2006年、国際基督教大学卒業。博報堂を経たのち、美術出版社「美術手帖」ユニットにて企業や自治体とのアートプロジェクトの企画、地域芸術祭の広報支援、雑誌・書籍の編集、展示企画などに携わる。2024年、慶應義塾SFC特別招聘准教授。
writer |
8 編集室

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