
大きくやわらかく世界を知覚することで、人間中心主義の現代社会を脱しおおらかに生きることを編み直せないだろうか。多視点、非人間、プラネタリー……社会の見え方を揺らす現代アートとともに、世界認識の体系化を試みる連載コラム。
vol.21は新国立劇場でのオペラ『エレクトラ』鑑賞したときのこと。その体験を通じてゲームの「やり直し」や人生の「強くてニューゲーム」について考察します。
読了時間:約5分
ファミコン世代のぼくは幼少期にドラクエやFF、マリオといったたくさんの名作ゲームとともに育ってきた。それは自分の価値観形成に強い影響を残していて、同世代の同性と話すときなんかには共通言語としても機能する。そのなかのひとつに「セーブしたところに戻る」という感覚があり、そのことを最近よく考える。ドラクエでモンスターにやられたときの教会音楽風のSEやバイハ(「バイオハザード」という街にあふれたゾンビを倒していくアクションゲーム)でゾンビに噛みちぎられたときの真っ赤な「GAME OVER」画面はトラウマのように脳裏に焼きついていて、しばらくは判断ミスや自分の実力不足を後悔し放心状態でその画面を眺めていたのだけど、やがて主人公はセーブした場所に戻り、やり直すことを促される(ドラクエに至っては教会の牧師さんになんか励まされる)。そして、もう一度勇者のパーティーは洞窟の最深部を目指して立ち上がる。──つまりこれを人生観に引き継ぐと、「(人生を全クリするためには)失敗はやり直されなければならない」という呪縛がぼくにはある。
新国立劇場でオペラ「エレクトラ」を鑑賞した。Claude曰く「父アガメムノンを母クリテムネストラと愛人アイギストに殺されたエレクトラは、復讐の妄執に取り憑かれ、王宮の下働きとして屈辱的な日々を送っている。妹クリソテミスは普通の幸せを望み対立するが、エレクトラは亡き父への復讐を諦めない。追放されていた弟オレストが密かに帰還し、母と愛人を殺害する。長年の悲願が成就した瞬間、エレクトラは激しい歓喜の踊りを踊り、そのまま息絶えて幕となる。」というあらすじの、なんとも重々しい悲劇だ(補足すると、本上演では母を殺害するシーンは具体的には演出されておらず、「母親は殺されたのか否か?」という問いが暗示されている)。

エレクトラとクリソテミスの姉妹を演じるふたりのソプラノと、それを太い中低音で支えるオーケストラは全体としてのバランスがとられ、素晴らしかった。リヒャルト・シュトラウスの作曲に(イタリアもののオペラでよく見られる)人格や感情をモチーフとして繰り返し表象する明瞭なキャラクタライズはなく、大渦や潮の満ち引きのような音圧で周囲を巻き込み感情のうねりを表現した。
新制作の本上演は、現代美術に親しんできた自分にとって読みやすく、演出の一つひとつの解釈を楽しむことができた。細部を挙げればたくさん出てくるが、全体を通貫していた主題は、「生と死」ならぬ、「死と生」であった。
心臓の音が静かに鳴り始めるところから上演は始まる。終始黒の衣装を身に纏い迷いなく復讐へと突き進むエレクトラは、まるでゾンビや亡霊のようで人間らしさを感じることが難しい。対照的に、黄緑色の可愛らしいドレスに包まれた妹のクリソテミスは振り切った姉に戸惑い悩み人間らしい迷いを見せ、ショッキングピンクの衣装を身に纏った母親クリテムネストラも、豪奢を貪り不安に煩悶し、全身で生を行っていた(いっぽうで死に近づくとともに黒の占める割合が大きくなっていく)。


衣装だけではない。舞台に設置されたブランコは振り子の運動からくる「繰り返す」「ゆれる」といった連想を通して幼少の記憶を振り返るエレクトラや、モヤモヤと思い悩むクリソテミスの心情を表現していた。また、終幕にて遂に母親を打ち破った(殺害した?)エレクトラは光の差す舞台の奥へと微笑みながら去っていくが、それはまるで生の次の世界、あの世へと向かっていくかのような演出でもあった。こうした「死=エレクトラ」と「生=クリソテミスやクリテムネストラ」という対比は、全編にわたって執拗に提示されていた。
「復讐を果たすまでは朽ち果てられない」と這い上がり黒服で猛進したエレクトラは、最後のボスを倒すために死んでなお再び教会からもう一度「やり直す」を選択する主人公の姿と重なった。

大人になってゲームをやらなくなり、久しぶりに「やり直す」という感覚を思い出したのは、子供が生まれたときだと思う。子供から見えているだろうはるか上のドアノブや冷蔵庫、本棚といった視界を想像したとき、それがトリガーとなって、何十年も忘却していた自分の幼かったときの記憶が、『失われた時を求めて』のマドレーヌよろしく湧き出てきて、思いがけない遠い昔のセーブポイントに漂着したような感覚を覚えた。巡り巡って、自分が親の立場になって“子供から見える大きな世界”に立ち会うことができ、そしてその世界を俯瞰している自分を客観視した。それは先のゲームオーバーになったときとはまたちがうもので、当時を懐かしむ気持ちや、そのときからの自分の変化──つまり、ただセーブポイントに戻るのではなく確実に時間は流れ、経験が積まれ、社会と自分が変容してきたこと──を実感することができた。
10代や20代のときは、新しいことへのチャレンジが好きだった。未知との出逢いに興奮を感じてきたし、多少なりとも予定調和の伴う一度経験したことに面白みを見出せず、もう一度「やり直す」ときには“足踏み”しているような焦燥感に歯軋りしてきた。だがいまはそういった再挑戦という意味合いより、過去の自分に出逢う懐かしさや自分の歩みを振り返る意味合いのほうが、「やり直す」という行為には濃い。
それは、晴れて最後のボスを倒したあとに出てくる裏メニュー「強くてニューゲーム(一部のゲームにある、一度全クリしたあとに強い武器を持った状態や高いレベルのままでニューゲームができること)」なのかもしれない。2周目は、ただ合理的に早くストーリーを進めるのが目的ではない。レアアイテムを集め、隠しエピソードにふれ、裏ボスを倒す。そうした個人的な愉しみを求めてゆらゆらと旅を彷徨うのが2周目の醍醐味なのだ。
そうしたときに、悲願を果たしまばゆい光を放つ奥へと歩んでいく結末のエレクトラは、“終わり”からどこへ向かおうとしていたのだろうか。生を終えた死後の世界か?(殺害が明示されていないなかで)復讐という呪いからの解放なのか?あるいはちがう結末を試みてニューゲームをやり直すのか?
思い返せば、ロックバンドのライブやクラシック音楽、なつかしい映画や小説といった学生時代に“新しい刺激”として楽しんでいたものとの再会を、最近のぼくは伏線回収のように愉しんでいる。いま一度邂逅した青春時代を穏やかな心地で見渡し、無事に生きてもう一度巡り逢えたことを悦び、当時からの成長や変化を噛み締め、そして最期に味わうことができてよかったと、思い出を綴じる。ぼくはきっと、あとがきを書くためにそれまでの章立てを振り返り、青春の編纂を総括しようとしている。もう、このゲームはやり尽くした、お腹いっぱい、と。ドラクエやFFのように続編はもう出ない。静かな充足感を、マドレーヌを食べながら過ごすのみだ。
【Photo】撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場
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writer |
田尾 圭一郎

「田尾企画 編集室」代表、東京大学大学院人文社会系研究科修士課程。2006年、国際基督教大学卒業。博報堂を経たのち、美術出版社「美術手帖」ユニットにて企業や自治体とのアートプロジェクトの企画、地域芸術祭の広報支援、雑誌・書籍の編集、展示企画などに携わり、独立。アートの企画・編集・コンサルティングを現在は行う。
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