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ポチってしまった。突如の思いつきで欲しくなってしまい、でも日常づかいにはiPhoneがあれば、そして仕事には一眼レフがあれば十分だよな、という悶々を1ヶ月ほどした挙句、案の定誘惑に負けて買ってしまった、コンデジ(コンパクトデジタルカメラ)を。まだパートナーには言えていない。知ったときの呆れ顔が浮かぶだけに、先行してそれっぽい理屈を講じなければ──。vol.20という節目の回は、そんな卑屈な焦燥感をきっかけに書かれる、長い長い言い訳だ。
感度の高い若者からすればいまさら、という感じだろうけど、「BeReal」をはじめた。アプリを入れると1日に1度、突然“イマ”をシェアするように求められ、シャッターを押すとスマホの向こう側(つまりカメラを向けた先、被写体)とこちら側(つまり撮影する本人、じぶん)が撮影され、友だちにシェアされる。できるだけ素の状態を、かつ多視点的に共有することが設計されていて、予告なしに突然シェアを求められるので撮れる写真は得てして(イケてるときを作り込んで投稿されがちなインスタに対して)“イケてない”もので、写真としての構図もイマイチだし内容もお粗末なものになりがちだ。タイパの時代に実利の不明瞭なアプリだが、数年前に日本でも流行り、人となりを知っている友人にだからこそシェアできる“大義のない世界制作”は、微笑ましい日々の所作に思えた。
また、XやFacebookでは“タイムライン”ということばが象徴するとおり流れ過ぎ去っていくものとして情報が捉えられているが、BeRealでは(インスタのストーリーズのように)24時間しか見ることができず、アーカイブできないことも特徴のひとつになっている。『スマホ時代の哲学』(ディスカバー・トゥエンティワン、2022年)で著者の谷川嘉浩は、SNSなどの常時接続が思考を停止させると警鐘を鳴らし、孤独になって思考や煩悶に身を委ねる時間を薦めているが、次から次へと情報が流れていく時代にその奔流を堰き止め、孤独に立ち止まることは貧乏性のぼくには困難だ。BeRealはSNS疲れが常態している時代にコミュニケーションを(常時接続ではなく)断続的な接続にし、情報自体ではなくメタ的な背景(つまり送信者の人となりや文脈)の「いま・ここ」を伝達しようと試みている点で新鮮に感じられた。
先日、千葉県は養老渓谷で開催されていたチームラボの野外展示、その名も「チームラボ 養老渓谷」を体験した。お台場や麻布台ヒルズの展示は過去に見てきたが、地域の、そして自然環境のなかでの展示を見るのは今回がはじめてだった。
展示はとてもよかった。養老渓谷の遊歩道をいかした会場には養老川や洞窟、ちょっとした高台があり、その表情ゆたかな展示空間や地域の歴史・文化の要素をうまく取り込みながら、真摯に作品をつくっているように感じられた。結果、作品のアウトプットはどれもスタイルが異なり、各地で経験と実績を積み重ねてきた彼らの円熟味も感じることができた。
具体的な作品を紹介しよう。養老渓谷の付近には「チバニアン」と呼ばれている地層がある。地球の(NとSの)磁場がかつて逆だったことを現代に伝えている約77万年前の地質時代を指していて、2020年に国際地質科学連合にて正式にこの呼称が決まった際には、自分まで誇らしい気持ちになったものだ。会場に入って正面の崖を用いた壮大なプロジェクション《悠久の今の中で連続する生と死》は、生命を象徴する花々の移り変わりが表現されていて、チバニアンが象徴する長大な時間軸のなかで繰り返される生と死の愛おしさを知る。作品の手前には養老川が滔々と流れ続けていて、そのしなやかで永遠とも思える力は、硬質な岩を削り崖線を形成する。そこに集う川魚や羽虫はプロジェクションの光を縫うように視界をチラつき、とめどない渓声はスマホに入った瞑想アプリよろしく精神を没入させる。ここでは、生命と非生命のダンスが何十万年も繰り返されているのだ。

《悠久の今の中で連続する生と死》
いっぽうで対照的な、胎動を思わせる光の流動をひっそりとした洞穴のなかで伴う作品《悠久の祈りの記憶》は、養老渓谷の地で2千年前には稲作が行われていたことを引用し、その営みや豊作への祈りが重ねられている。「チームラボ」と聞いて私たちがまずイメージするのは空間的な没入感なのに対し、この作品は狭く深い異次元に吸い込まれていくような、精神世界への没入を感じさせてくれる。いっけん密やかな本作に、いちばん長い鑑賞の待機列ができていたのには小さな驚きを覚えた。

《悠久の祈りの記憶》
字数の関係で省略するが、小高い開けた場所で星々へと祈りを捧げるようにうねりながら光の帯が天空へと昇る《生生流転柱》や、巨木の枯れ木が川の流れのなかに静かに浮かび上がり生と死を強烈に共存させる《死生不二塊》も、それぞれの環境と技術を掛け合わせた素晴らしい展示だった。

《生生流転柱》
作品のすぐそばで川の水は絶えず流れ、水の音が聞こえる。インスタレーションの光に誘われて羽虫が飛び交う。ライトを浴びて赤やみどり、青の色に染まった草木が風に揺らぐ──多様な環世界のなかに作品という変数が新たに加わり、イマジネーションや雄大な時間軸に想像を跳躍させる。「世界は変わり続けている」というごく当たり前のことを、想像や時間軸、生と死にまで拡張して訴える、“天球観測”を促す展示だった。
そのなかで、少し異なる印象を与えたのは《切り取られた古色の森》だった。切り通しのような細い小道を光度の高い光をプロジェクションで明滅させることによって、その瞬間の空間を平面的に、または断層的に切り取っていく。それは、ミルフィーユのように重ねられる地層の断面を切り取るようで、つまり長大な時間軸のなかにある一瞬──「いま・ここ」を認識させる。澱みなく流れる川に両の手をスッと入れて水をすくい覗き込む、そんな作品だった。

《切り取られた古色の森》
そうなのだ。生命と非生命の営みや何十万年もの時間といった天球観測によって膨張した世界認識は、ときに戻る場所を見失う。その大きな世界のなかで自分の生きる小さな小さな「いま・ここ」は、どんな接点なのだろうか。どのように振る舞い、世界と影響し影響されるのだろうか。とどのつまり、どのように毎日毎時毎分の日常を生きるのだろうか。
──大きな世界認識の果てに、そうした小さな世界制作への問いが待ち構える。会場の作品をぐるりと見てまわり入口へと戻る細い道に展示された《切り取られた古色の森》は、現実に還っていく私たちへのヒントを示唆している。
写真を撮ったり絵を描いたりをただひたすらに毎日繰り返される作品はアウトサイダーアートに頻繁に見られ、「記録芸術」とも呼ばれる。それらの視座は定点(つまりモチーフや表現方法が規則的に反復される)のものが多いが、もしそれが被写体と撮影主体を同時に撮る双方向的な切り取りだとどうなるのか?もしそれが日常的で無作為な撮影による多面体的な切り取りだとどうなるのか?
その約1ヶ月後、BeRealはいまさらに興味を持たれ、コンデジはポチられる。世界を、インスタよりもリアルに、iPhoneよりも高解像度に、一眼レフよりも日常的に制作できるツールとして。
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writer |
田尾 圭一郎

「田尾企画 編集室」代表、東京大学大学院人文社会系研究科修士課程。2006年、国際基督教大学卒業。博報堂を経たのち、美術出版社「美術手帖」ユニットにて企業や自治体とのアートプロジェクトの企画、地域芸術祭の広報支援、雑誌・書籍の編集、展示企画などに携わり、独立。アートの企画・編集・コンサルティングを現在は行う。
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