
人間らしくありつつも、どこか違うその違和感を指して、ロボット工学者の森政弘は“不気味の谷”と提唱した。この言葉は主にロボットやCGといった人間を模したものに使われ、その違和感を超えることがテクノロジー表現の目標のひとつであり、いっぽうでその違和感こそが人間性とも思われ、工学から芸術、哲学といった幅広い分野で議論されている。
もう2月の話になるが、文化庁メディア芸術クリエイター育成支援事業の成果発表イベント「ENCOUNTERS」の内覧会を訪れた。少し背景を補足すると、これは“メディアアート”と呼ばれるデジタル・テクノロジーを用いた現代アートの表現分野で活躍する作家の展示発表や作品制作の機会をつくるための助成事業で、その一方でいまや狭義に括るのは難しいくらい“デジタル”や“テクノロジー”は日常生活に浸透しているし(たとえば日頃何気なくやっているインスタのリール動画も、デジタル・テクノロジーを用いた表現と言えてしまう)、“現代アート”というファインアートの分野に閉じるではなく、例えばパフォーマンスやアニメーションなど他分野と横断し旧態然とした分類に囚われない表現が希求され、(メディア・アートではなく)“メディア芸術”が、そして(アーティストではなく)“クリエイター”というより広義の言葉が、使われている、たぶん。
育成支援事業というだけに対象は若手クリエイターとしていて、その成果を発表した「ENCOUNTERS」の展示では(いい意味で)手探りで評価の定まらない作品が多く見られた。そのなかには自分が過去に関わった作家や現在進行形で関わっている作家、そしてこの事業を通じてキュレーションした作家もいて、ワクワクと応援の気持ちを混在させながら展示を見て歩いた。

展示風景
“不気味の谷”を目指している──。それが展示を見終えた最初の感想で、(冒頭でふれたように)これまで私たちはロボットにみられる違和感を(“谷”という言い回しが象徴するように)乗り越えるべきものとして認識してきた。しかし膨大な過去のデータをもとに──つまり“人間”そのものから“人間らしさ”を再構築するAIは、(少なくとも言語領域においては)その“不気味の谷”を超えることに成功した。
“不気味の谷”を超えたAIが急速に浸透して数年が経ち、私たちはAIが紡ぐ“人間らしさ”を人間の代役として相談相手にしたり如何にもな回答を揶揄してみたりと、すっかり“不気味の谷”の向こう側に馴れ切ってしまった。食傷気味になっている人さえいるし、“フィジカルAI”に象徴される別の“人間らしさ”を目指す動きもいまは活発化している。
ロボットとのそれとは違う、人間の“人間らしさ”と新しい“人間らしさ”(AI)のあいだにある“不気味の谷”を再定義することで、人間にしかない人間性を見出そうとしている。“不気味の谷”自体を目指そうとする今回の展示は、アーティストたちのそうした挑戦のように感じられた。
象徴的な作品を紹介したい。岸裕真は《xoxo-skeleton》を「AIによるエクソスケルトン・インスタレーション」と定義している。胸部の肋骨のような形状の金属のなかに人間が(まるで内臓のように)収まり、AIによって人間の身体が動かされるパフォーマンスを行うことによって、AIと人間の関係性を逆転させている。
このとき、人間らしいAIによって動かされる人間の動きは紛いなき“人間らしさ”を持っているはずなのだが、そこにはとてつもない“不気味さ”が立ち込めていた。人間が人間を支配するブラック企業にしてもシンギュラリティに対する不安にしても──岸のインスタレーションが“(人間がAIによって)支配されている”恐怖感を与え得ることも理由のひとつだろう──、人間は支配を恐れ(それは神のような絶対的存在への畏れとは異なることを補足しておく)、自由に、平等に、共生していくことを、求めている。
他にも、生成AIを用いて集合的な記憶と自身の表現を組み合わせる山中千尋(彼女はインタビュー*のなかで、共創相手としてのAIに可能性を見出している点も興味深い)や、“ベッドタウン”をモチーフにAIにとっての人間性──つまりAI側から見た“不気味の谷”を照射した永田一樹もまた、AIとの共創関係のなかで新たな人間性の輪郭を模索していた。

不気味の谷についての考察

山中千尋 永遠に呼吸する風景 — アニメーションによる、今この一瞬にある天国 —

永田一樹 ベッドタウン・AI
狭い業界の常として、懐かしい仲間に再会するのも内覧会の楽しみのひとつだ。この「ENCOUNTERS」展でも、出品している若手作家のひとつ上の世代──つまりぼくと同世代のプレイヤーが多く関わっていた。コーディネーターやプロデューサー、キュレーター、インストーラー、ライター…といった彼らと「活躍をインスタで見てるよ!」「また一緒にやりたいね!」といった近況共有から子育ての悩み相談にいたるまで、旧知をあたためる時間は本当にぼくの心の奥深い部分をあたためてくれた。
そんな彼らとのやりとりのなかで印象に残ったことがある。たまたまなのか数人が「相助し合いましょうね」と同じことばを発していた。個人的な感覚だけど、こういうときの言葉って「お互い頑張りましょうね!」とか「困ったことがあったらいつでも言ってくださいね!」だとかなのだが、“相助”という使い慣れない熟語と“助け+合う”という意味合いがすごく新鮮に感じられた。
だがその“相助”こそが、AIという“人間らしさ”を前にしてもなお残る、人間の人間らしさなのだろう。「助ける / 助けられる」ではなく、“相助”という中動態的な共生関係を築いていくこと。それは“命令”や“発注”といったプロンプトにあふれた人間社会の“AIらしさ”に突きつけられた、新たな宿題なのだとも思う。
All photo by tada
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writer |
田尾 圭一郎

「田尾企画 編集室」代表、慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス 特別招聘准教授。アートの企画・編集・コンサルティング/2006年、国際基督教大学卒業。博報堂を経たのち、美術出版社「美術手帖」ユニットにて企業や自治体とのアートプロジェクトの企画、地域芸術祭の広報支援、雑誌・書籍の編集、展示企画などに携わる。
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