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対談8【前編】自分にとっての「健康」を考え、選ぶ

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ミツバチが花々を飛んで、命を繋いでいくように、対談者同士が交わり合い知見や意識を共有し、新たな可能性を模索する対談企画「対談8」。第3回となる今回は、心理学者・臨床心理士の黒川由紀子先生と 医師や作家として活動される稲葉俊郎先生をゲストに迎え、「不健康を内包する健康」をテーマに対談が行われました。


2025年3月13日、メディアの正式なリリースを記念し、「⼼と体・健康と社会 その巡りを考える」をテーマに、トークイベントが開催されました。

 

特別ゲストにお迎えしたのは、心理学者・臨床心理士の黒川由紀子先生と、医師や作家として活動される稲葉俊郎先生。黒川由紀子先生は8 Hachi Mediaで「Mindfulness Practice 」という連載をご寄稿くださっています。トークイベントでは「不健康を内包する健康」とは何なのか、心と体の関係性についてお二人にお話しいただきました。

 

前編では「病気」や「健康」とは何なのか、その関係性や捉え方から、自分にとっての「健康」や「豊かさ」を考えることの大切さなどについて。多岐に渡るお二人のトークをお楽しみください。(後編はこちら) 

持続可能な社会をつくる。その中で健康でありたい。

 

「温泉は天然の素晴らしい病院」と感じたからこそ、湯治を現代的に蘇らせたいと語る稲葉先生。なぜ温泉なのか。日本人にとって馴染み深いお風呂は、意外な理由で心と体につながっていました。

 

稲葉

私は言葉遊びのようにして「マインドフロ(風呂)ネス」と言っているのですが、お風呂に入るとマインドフルネスな状態へと自然になれると思っています。「洗い流す」ことが行為として象徴的に大事なことなんです。神道の「禊」とは物理的な汚れを落とすことが目的ではなく、生きているだけで受けてしまうマイナスのもの、つまり「穢れ」を落とすためのものです。「水に流す」という言葉の比喩にもあるように心理的にも「水に流す」ことには意味があります。私たちは外からやってくる情報に溢れていて、頭の中には良い情報も悪い情報も溜まりすぎています。だから時々洗い流してお掃除してさっぱりすことが必要です。その方法の一つが、お風呂や温泉に入ること。洗い流すことを体で覚えると、心にもつながってきます。入浴することで、思考が整うのは心と体が結びついている現象なのではないでしょうか。

 

黒川

私もお風呂が好きで、出勤前には必ず入浴しています。5分でも3分でも、時間がなくて1分だけでも、ぼちゃっと入るだけで、なんでこんなにも新鮮な気持ちで1日を始めることができるのだろうかと思うほどスッキリしますよね。

 

稲葉

病院での治療は、手術もありますが、処方箋を出して錠剤を飲むことです。ただ、薬物治療に終始することが良いとは思えませんでした。確かに人体に変化は起きます。ただ、本当に何かを変えたい、根本的に自分に起きていることに向き合いたいというときに、もっと多様なアプローチがあるのだろうと医者として一人の人間としても違和感を感じ続けていました。例えば、お風呂に入って心と体をゆるめたり清めることは簡単にできることですよね。当たり前すぎることは軽視されますが、もっと基本的なことから取り組むべきではないだろうかと疑問に思っていました。もちろん、そうしたことを丁寧に対話する時間もとれないのが多忙すぎる医療現場の現実でした。自分に嘘をつけなくなってきたこともありますね。

 

黒川

お医者様で薬は良くないとおっしゃる方は少ないと思います。以前、認知症に関係したテレビ番組に出演する機会があったのですが、とにかく様々な薬を飲む方が良いという方向にしようとする意図を感じて、抗議の手紙を書いたことを思い出しました。

 

「病気学」ではなく「健康学」

 

稲葉

医学部に入ったときから学んでいることに疑問があったのですが、答えられる人が誰もいなくて自分で考えてきました。10年以上熟考した結果で分かったことは、私は「病気学」を学びたいのではなく「健康学」を学びたかったのだということです。例えば「認知症」という病名をつけると病気になりますが、それが老いや変化と捉えれば病気ではなく、健康になるプロセスの一つということになります。認知症のメカニズムも大事かもしれませんが、よりよく健康に生きる観点での認知症のとらえ方やアプローチも必要です。

 

言葉の力は強いと思っています。病名をつけられると一見安心するように思えますが、長期的にはその言葉に縛られますし、貼られたレッテルはなかなか剥がせません。そうすると私たちもそういう偏見でしか人を見れなくなってしまいます。だから病気学の観点だけで物事を見るのではなく、その人がどうやったら健康でいられるのかという観点を重ね合わせて考えることが、人間理解の本質に至ることではないでしょうか。私なりに医療現場での経験を重ねながら、そうした結論に至りました。

黒川

そうだったのですね。東大病院から軽井沢病院に移られた時に「屋根のない病院」をつくりたいとおっしゃっていたことに感銘を受けました。軽井沢病院を退職された今も、その想いやメッセージが幅広く、色々なところにつながっているように感じますが、いかがでしょうか?

 

稲葉

軽井沢は明治19年ごろから海外の宣教師の方から別荘地としての一面でも人が集いい始めて現在に至ります。そのきっかけは、滞在していると心が安らぐこと、まるで「屋根のない病院のようだ」と称されていたことです。「屋根のない病院」という言葉の響きが素敵だと思いました。私は病院という仕組みに適応することが目的で医者になったわけではありません。人を元気にして豊かにして、治癒の方向へと向かう場があるなら、そうした場の全体を見立てることで、治癒の場としての病院を捉えることができるのではないかと思いました。場を治癒的な場と見立てること、その考え方から、山形ビエンナーレの芸術祭でも芸術監督を務め、芸術と医療とを重ね合わせた場を創ろうと挑戦したこともあります。

 

黒川

芸術祭を監督されたお医者様は珍しいと思いますが、確かに本来、アートと医療は深く結びついているはずのものですよね。

 

稲葉

アートと医療はいずれも「術」という観点でもつながっていると思っています。「芸術」「美術」「医術」。どれも「技術」であり、「術」とは匠の技でもあり、アートの語源であるラテン語の「アルス(ars)」が技術であることとも通じます。医術も芸術も、失われた全体性を取り戻す技術なのだと思います。

 

山形ビエンナーレ2020では「全体性を取り戻す芸術祭」という言葉を使いました。わたしたちは普段生きているだけで、いのちの全体性が崩れてしまいます。それを取り戻そうとする行為が、あるときには医術であり、あるときには芸術であると思います。そうした共通の基盤にたった芸術祭を構想して見ました。ちょうど2020年はコロナ禍のはじまりで、ほとんどの芸術祭が中止になりましたが、わたしたちはこうした不安定な時期こそ芸術が必要だと考え、完全オンライン開催に振り切って実施しようと決意したことを昨日のことのように鮮明に覚えています。

 

健康になれば病気が治る

「病気学」ではなく「健康学」がやりたいことだと気づいたと話す稲葉先生。では「健康学」の観点で物事を捉えてみるとは、どのようなことなのでしょうか。改めて健康とは何かを考えてみるとその答えは、人間の本質的な豊かさに通じていました。

 

稲葉

私たちは病気学の捉え方に慣れ過ぎていて、「病気」に「病名」をつけ「病人」を「病院」で扱うという発想に囚われています。私も病院のシステムで働いてわかりましたが、病気学で物事を捉える世界の見えざる考え方の中に「病気がよくなれば健康になる」という発想が無意識に隠れています。だから、「病気は治さなければならない」「病気が治らなければやりようがない」という発想につながります。

 

しかし、東洋医学、インド医学のアーユルヴェーダなどの伝統医療を少しずつ学んでいると、発想が逆なのではないかと感じるようになりました。「健康になれば病気が治る」「健康になれば病気と共存できる」という考え方です。こうしたアプローチを、私は病気学に対して健康学と名付けることにしました。もちろん、そうしたことが書いてあるわけではなかったのですが、根本的に人体や生命の捉え方が違うことが読みとれてきたのです。

これは似ているようですが全く異なる考え方です。病気学として「病気が治れば健康になる」と考えると、例えば認知症は病気が治らないなら永遠に健康になれない、と悲観的に考えてしまいます。ただ、健康学の視点から「健康になれば病気と共存できる」「健康になれば病気が気にならなくなる」と考えれば、その人にとっての「健康」を考えようと前向きな視点を持つことができます。その人が健康であるために「幸福になる」「豊かになる」ことを多方面から考えていくことが大事なのです。そして、それは個別性が強くてなかなか一般化できないものでもあるのです。

 

しかし、病院という場で病気に対して何もできないと考え続けてしまうと、そうした無力感はボディーブローのようにエネルギーを奪います。それは当事者もそうですし、周囲でケアする側も同じです。希望が持てず否定的な捉え方でその人を見てしまうことが問題ではないかと感じています。病気学で見ると「恐れ」や「不安」が場を支配しますが、健康学で見ると「愛」の観点から物事を捉えることができるのではないでしょうか。

 

黒川

先生のお話を伺って思ったのですが、弱ったり、認知症だったり、鬱病だったりしても、その方の本当の生命の輝きが埋もれているところのどこか奥底にキラッと光るものがあると感じることがあります。その輝きを妨げているものを少しづつ、ご本人が取り除いたり、それこそアートの力などを借りながら分かち合うものなのかもしれませんね。

 

不健康である状態も人の全体性のサイクルの中では必然的に立ち会うことになるのが自然で、一生に一度も風邪を引いたことがない人、お医者様にかかったことがない人はゼロだと思います。年齢を重ねれば益々弱さというものが出てくるのですが、そこで支え合うのが人間の豊かさ、人間ができることなんじゃないかなと思います。

 

「学び」を手放すことも大切

 「健康学」の話から、話題は「健康であるための思考のあり方について」へと移ります。失敗と自己否定を切り分けて考え、心の健康を保つために必要になること。それは「アンラーニング(Unlearning)」でした。

 

稲葉

産業医もしているので、様々な方の面談をします。話していて気になることは、失敗をすぐに自己否定に結びつけてしまうことです。失敗をしたときに思い返して反省することは誰にでも大事なことだと思います。「失敗を糧に次にどうつなげようか」と前向きに考えるのが「反省」だと思いますが、失敗したことを反省した結果、「あぁ、だから自分はダメなんだ」とか「自分はもう生きていてもしょうがない」と、自分を否定する方向(自己否定)に考えを直結するのは違うだろうと思います。もしくは無理やり自分を正当化させて、他者否定(あの人が悪かったのだ)の結論に至ることも建設的ではありません。

私は、そうした自己否定の結論に着地する思考方法はこの際やめてしまいましょうとお伝えしています。「肯定からしか物事は始まらない」ことを伝えるようにしています。

 

なぜ、そうした発想法に至ったのかを深く探ると、子どもの時の経験が影響していることも多い印象があります。両親や周囲の人から、自分自身を否定するようなことは言われてしまい、その言葉が心の奥底にトゲのように刺さっていることも多いのです。

 

人間は子どもから大人になる学習の過程で、時には誤ったことも学習しています。自己否定で着地することもそうですし、怒りで場を支配することなどもそうです。そうした自分を痛めつけるような行動パターンを一度手離して忘れることは「アンラーニング(Unlearning)」とも言えます。「あなたはダメだ」と否定された言葉をアンラーニングしないと、棘が深く刺さったままで、無意識の行動に影響し続けてしまいます。棘を抜く行為に近いのかもしれません。人はどうしても得ることばかりに熱心になり、捨て去ること、剥ぎ取ることは盲点になってしまうようです。

 

聖書の中に「禁断の果実」として善悪の知識の木の果実が「知恵の実」というメタファー(隠喩)で出てきます。つまり、何かを知ることは自分の中に入り込むことで、巣をつくることで、いいことだけではなく悪いこともあるのでしょう。つまり、得たもの、知ったことを、時には、排除したり、捨て去ることも大事だと思うのです。

 

同じ体験をしても、ある人は「よし!これを活かしていこう」と考え、ある人は「自分はダメだ、生きている価値がない」と考えてしまいます。そうした思考パターンは、どこかで誤って学習したものとも言えるのではないでしょうか。反省は大事ですが、結論を自己否定として着地するのは違うだろうと思うのです。

 

黒川

そうですね。子どもの頃の影響って本当に大きいと思います。臨床心理士は、ほとんどの場合、そうしたネガティブな経験をされてきた方に出会います。その方を縛っているものを解いていくというか、アンラーニングというのは実に時間がかかることなのです。

 

そのネガティブな経験が育まれた年月分の時間や何らかの術。そういったものが必要なのかなと思います。だからこそ変化なさるお姿に感動することがありますね。

 

自分にとっての「健康」や「豊かさ」について考え、選ぶ

自分にとってネガティブな「学び」を手放すこと。それは何が大切かを選択することでもあります。多くの情報が飛び交い、様々な形で、目や耳にする機会が多い現代社会。情報に埋もれてしまわないために、私たちは何を意識すべきなのでしょうか。

 

稲葉

病気のことを学ぶことも大事ですが、私は健康について学ぶことも大事だと思い「健康学」という言葉を使っています。健康学の観点で考えると「防御する」ことも重要になります。これは、何を取り入れるのか、不要なものが侵入してくることから身心を守るということでもあります。

 

もしあなたがお城の門番だとすると、門を常に開放して全てを中に取り入れることはありませんよね。本当に中に取り込んでいいかどうかを判断するのが門番の役目ですから。食べ物でもそうですが、自分にとって健康や幸福に寄与するものなのか、と考えながら選んでいく必要はあります。それは情報に対しても同じです。テレビやスマホ、ネットで見た情報を何でもかんでも門の中に取り入れてしまうと、時には闇にも吸い込まれてしまいます。気づかずに大量の毒を飲んでしまっていることもあるのではないでしょうか。もちろん、時には毒も必要ですが、致死量に至る毒には解毒剤も必要です。

 

自分にとって「健康」であり、「豊か」になるために必要なものは何なのか、ということを考えて取り入れることが必要です。門番は自分しかいないのです。芸術や音楽、詩や文学の価値も、そうした面にもあると思います。

 

黒川

ある程度は悪いものを取り入れてもよろしいのでしょうか。私は子どもの頃にインドネシアに住んでいたことがあり、衛生的ではないところも当時は多かったのですが、それが後の自分の強さにつながっている気もします。毒も薬になるということはありますか?

 

稲葉

もちろん、毒が薬になることもありますね。良薬は口に苦しとも言います。岡本太郎の「自分の中に毒を持て」という本は個人的な愛読書です。ただ、やはり致死量や許容量には個人差がありますよね。

 

黒川

よく効く薬を調べると副作用があったりする。毒になるのと効くということは表裏一体なのかもしれませんね。

 

稲葉

毒をもって毒を制するべきなのか。またはその毒は自分には過剰で排出すべきものなのか。そうした選択が大事ですね。門番が判断して門の中に入れたとしても、不適切なものは門の外へと出てもらい、お断りすることも大事です。選択できるためにも、明晰な意識を持つことも大切です。そうした明晰な判断とマインドフルネスのトレーニングは、心の使い方として今後重要になっていくと思います。

 

後編では心の扱い方について、より深く探ります。

プロフィール

心理学者、臨床心理士 黒川由紀子先生
上智大学名誉教授、黒川由紀子老年学研究所所長。特に高齢者の心理臨床を専門とする。これまで医療機関や福祉施設等で認知症の人への心理療法を専門職やボランティアと共に行ってきた。現在回想法グループ、自分史年表講座、マインドフルネスの会、歌・音楽を楽しむ会等を運営している。年を重ねる豊かさを多世代で共有できたらよいと考えている。

医師、医学博士、産業医、作家 稲葉俊郎先生
慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科(SDM) 特任教授。「いのちを呼びさます場」として、湯治、芸術、音楽、物語、対話などが融合したwell-beingの場の研究と実践に関わる。西洋医学だけではなく伝統医療、補完代替医療、民間医療も広く修め、医療と芸術、福祉など、他分野と橋を架ける活動に従事している。

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