
世界でいちばん権威あるアートフェアと言ってもいいだろう、「Art Basel 2025」に行った。ロンドンやベルリン、パリといった現代アートの盛んなヨーロッパの他都市に比べてバーゼルはのんびりとした郊外だが、国際展示場のなかはなかなかに刺激的だ。フェアは、世界42カ国から289のギャラリーが集まり、6月19日〜22日の4日間行われた。世界中から富裕層のコレクターが集まり、かと思えばカップルやファミリーなど市井の人もアートを楽しみに訪れる。華やかな現代アート・マーケットを象徴するひとつとしてArt Baselは長きにわたって大きな渦をつくってきたが、2025年、私がここで感じたことは「自由と不安」だった。
モネやセザンヌなど西洋美術の殿堂を丁寧に引用する作品が印象に残っている。多様性がもてはやされ、アジアも中東もアフリカもそれぞれがゆたかな表現を構築する文化圏だと認識したときに、現代アートの中心でありルールであった“西洋”美術は、複数のうちのひとつの文化圏としてもう一度捉え直される必要が生じる。これまで王道のあからさまな引用は野暮な印象を与えてきたが、それらはいま前提となる価値観へのクリティカルな視点を伴う。絶対化から相対化へと移行する“西洋”美術は、自由な評価へと解放されると同時に、先行きの見えない不安感にもつながる。

加えて富裕層の集まるアートフェア全体の印象として、作品はどれもカラフルで華やか、そしてストロングで明快なイメージを持たれてきたが、今年の少なくない出品作にくすんだ印象を受けてしまった。表現主義的な不安定さや寂寥を感じさせる、抽象的で難解な作品たち。20世紀前半の第一次世界大戦前後、表現主義という芸術運動がドイツを中心に興り、キルヒナーやカンディンスキー、ムンクらを筆頭に、社会情勢や大戦への不安定な精神性を抽象的かつ重い色彩で表現したが、出品されていた作品はこうした表現主義を思い出させ、現代は不確実な戦争の時代なのだと強く認識させられた。
アート鑑賞は得てして「自由に解釈していい」と放られ、かえってそれが鑑賞者の不安を煽るものだが、いま世界中で顕著になっていることはそれに似ている。Art Baselに垣間見る表裏の「自由と不安」は、紙幣経済への懐疑や国家間の戦争、多様性の尊重といった、前提となる力学を覆そうとする世界的な流れと連関している。
では、突き放たれた自由な世界で、私たちは何を選択していけばよいのだろう。

バーゼルはドイツとフランスとの国境、スイスの北東部にあるが、そこから電車で4時間ほど南下したイタリアとの国境、国の南端にあるマッターホルンへと、Art Baselの視察後に向かった。国を隔てる壁のような山脈からさらにもうひとつ、地球から鋭く突き出た楔のようなこの山は、多くの観光客をここに招き寄せる。標高3,883m、マッターホルン・グレッシャー・パラダイス展望台までロープウェイを乗り継いで行く道は、自然の厳しさを如実に語りかける。2,000mぐらいまではみどり鮮やかな木々が茂っていたが、そこから上は高山植物が主になり、やがて荒々しい岩肌のところどころに白い雪が目立つようになる。3,000mより上になると、幻想的ともいえる真っ白な世界が通り過ぎるロープウェイのすぐ脇に広がる。

紫外線の降り注ぐ展望台には、小学生ぐらいの小さな子供から杖をついた老夫婦までが幅広く集まって来る。365日スキーで滑れるのがこの展望台の売りで、スキー板を担いだ親子も散見された。マッターホルンの標高は4,478m。だいぶ上まで登って来た心地だったがそれでもまだ目の前に尖った岩肌はそびえていて、その向こう側にはまた次の山並みが、イタリアが広がっている。かと思えば不意に周囲が暗くなって、すぐ上を雲がたなびいていった。
そんな圧倒的な向こう側を前に惚けていたら、娘が自宅に着いたと着信が入った。小学生になり独りで出歩くことの増えた娘に与えた、見守りGPSだった。東京から約9,700km、標高3,883kmの展望台で娘とつながったことは、絆のようなウェットなものでもネットワーキングのような実際的なものでもない、地球が大きな大きなひとつを成している、という事実を示唆していた。ここで見上げた雲は街に流れて行き、バーゼルで雨を降らす。大きくそびえていたマッターホルンもその向こう側でイタリアとつながる。そのずっとずっと先、ヨーロッパを超えてユーラシアを横断して東端に行くと、ぼくの娘が小学校から自宅に帰り着いている。たったひとつの着信が、地球という大きな空間を唐突に想像させた。

ドイツとフランスとの国境に位置するバーゼルは永世中立国スイスにとって交通の要でもあり、それはArt Baselを筆頭に様々な国際的イベントがこの街で行われるようになった背景のひとつでもある。四大文明がどれも川沿いに位置していたこと、国際都市の多くが海に面していたことなどを振り返らずとも、交通の要衝であることは都市の発展において重要であることを否定する人は少ない。
だがいっぽうでSociety5.0の現代社会はもう少し状況が複雑になっていて、“人と人とのつながり”は多義的になっている。交通が交わる場所でなくてもメタバースやSNSによって人は人とつながり交流し、かと思えばスクランブル交差点で肩がぶつかり満員電車でもみくちゃにされながら、過密都市・大東京で私たちは孤独を感じている。“つながる”ということは、そこに相対する人がいるか否かではなく、あまりに多様な選択肢と不確実性を前に(自身にとっての)意味を感じ紡ぐ[yarning sense]ことによって発生される。

たまたま目の前にいる人やなんとなく気になったもの──結果として私に感知された存在たちに意味を見出し、合理や選択に縛られずに自分らしい物語を紡いでいく(一般的に“紡ぐ”を意味するのは“spin”だが、“yarn”はスラングで“作り話”を指す)ことで、大きくて美しい“ナラティブ”ではない、“等身大の人生”が具体を帯びていく。
それは、解釈する力とも言い換えられる。“美しい”だけでは説明が困難で不可思議な表現が立ち並び、そこで読み直されたストーリーによって巨額で売買されていくArt Baselのように、マッターホルンのはるか遠くで娘が帰宅しているように、巡り合わせた意味たちを結合する錬金術が、自由で不安な世界では不可欠になっている。
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writer |
田尾 圭一郎

「田尾企画 編集室」代表、慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス 特別招聘准教授。アートの企画・編集・コンサルティング/2006年、国際基督教大学卒業。博報堂を経たのち、美術出版社「美術手帖」ユニットにて企業や自治体とのアートプロジェクトの企画、地域芸術祭の広報支援、雑誌・書籍の編集、展示企画などに携わる。
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