
20代を広告会社で務めたぼくには、“ブランディング”という言葉への盲信がある──というよりも、あった、ということに最近気づいたのだが、それからというもの、ちょっとしたビジネスシーンの端々に違和感を感じることが増えた。広告で企業や商品のイメージを発信していくときに、広告会社はそれをひとつのビジュアルやメッセージにまとめ上げ、15秒のCMや一枚の新聞広告に仕立てて発信していく。盲信というのは、そうしてブランディングしていくことでメッセージをブラさずに多くの人と共有していくことが常に間違いなく素晴らしいのだという考えに囚われ過ぎていた、ということなのだが、いやはや。

写真提供:太宰府天満宮
新しくできた(!)福岡空港国際線ターミナルから直行バスに乗って30分ほど、太宰府天満宮を久しぶりに訪れた。御本殿が124年ぶりに改修されるのだが、その間訪れた人がお詣りできるようにと3年間だけ御本殿の前に仮殿が建てられている。設計は建築家・藤本壮介氏で、まるで鏡板のような半円形の屋根の上にシラカシやススキ、梅、モミジといった何十種類もの草木が植えられている。季節ごとに彩りを沿えつつ樹木の高さもバランスがとられており、離れて見ると仮殿の上にみどりの環世界ができあがっているようだ。特徴的といえばかなり特徴的なのだが、そこに作家性や主張を感じることよりも、御神体として日本人が向き合ってきた鏡や草木、生態系がモチーフになっているためか、スッと自然に向き合わせてくれるような心持ちになる。
太宰府天満宮は御祭神として菅原道真公を祀っており、彼の生誕された6月25日・薨去された2月25日にあやかって“25”という数字が重んじられている。月次祭が執り行われるのは毎月25日で、式年大祭は25年ごとに行われている。今回の大改修が終わるのも、道真公が薨去されて1,125年目の2027年を予定している(本殿が修復されるのは124年ぶりだというが、これは偶然の近似らしい)。

冷静に振り返ってみてほしい。上場企業であれば何百人・何千人と社員がいて、部署によってカルチャーも異なる(広告会社で言えば、営業とクリエイティブの分かり合えなさがよく宴席の肴になったものだ)。商品ひとつにしても、それを開発する担当やマーケティングする担当がいて、もちろんエンドユーザーも1人や2人ではないはずだ。要はその広告が宣伝する対象には数えきれないほどの人が関わっていて印象が異なるはずなのだが、広告として不特定多数と共有するときにひとつの簡潔なメッセージにまとめられるため、そこから少なくないものがこぼれ落ち得る。
こうした“ブランディング”の違和感に呼応するように、“ナラティブ”という言葉を近年よく見るようになった。多くの人と共有するための浅く抽象的なメッセージよりも、私的な意志[ウィル]や物語性の強いストーリーが共感を呼び人々を惹き付けている。推し活に占い、インフルエンサー、トランプ大統領といったパッと挙げられるものはどれも、多少の理不尽や矛盾を残しながらも個別の強い想いが他者を動かしている。
アートがカルチャーとして社会に受け入れられるようになったのも、これを背景のひとつとしている。作品に非言語的な魅力を感じ、アート思考を語っては創造性を求める──これらを、80年代以降の大量生産・大量消費社会、そこに埋もれないための90年代のブランディング、そして経済の停滞を打破しようと私的で強い物語に惹かれていく2000年代のナラティブへと、時代の関心が流れていく変遷を読み直すこともまた可能だろう。
だが、ここ数年見ていてナラティブの危うさもまた感じている。人を惹きつけるウィルはどれも強く中毒性があり、行き過ぎた盲信や依存、あるいは失望へと陥りやすい。

宝物殿の展示室の一角では、藤本氏による仮殿設計の資料展示「藤本壮介展―太宰府天満宮仮殿の軌跡―」が行われている。何十回も建築模型がつくられシミュレーションが行われ、仮殿のあり方について模索されていることを窺い知ることができる。これだけトライ&エラーが繰り返されたことにまず驚いたが、視察にあたり話を聞く機会をいただいた宮司いわく、「それは藤本さんが自分のいち作品としてではなく、太宰府天満宮の天神様のお住まいをつくるという視座をもたれていたからではないか」とのことだった。
道真公は教育や文化芸術の神様と言われるが、いまでいうイノベーターのような側面もあり、有名な遣唐使の廃止や“和魂漢才”の提唱など、様々な偉業を成し遂げている。今回の仮殿設計もそういった側面に思いを馳せながら、どうしたら道真公に喜んでいただけるのか、という自問のもとに行われている。
太宰府天満宮は現代アートのプロジェクトにも注力しており、境内のなかにいくつかの作品が常設されているが、これもまた、本質ともいうべきところを護り次代に継ぎながら、時代ごとの創造性や革新性を表現していこうという姿勢の顕われでもある。
「では、その本質とはなにか?」というこちらの質問に、宮司は長考したのち「言語化はできないが、なにか(宮司や神職ら)私たちのなかで共有されているものがある」と応えた。
わかりやすい言葉でその“本質”が提示、そして代用されなかったことが、強く印象に残っている。それが何なのか、探しながらも答えを畏れ、それでも応えていく。太宰府天満宮の姿勢は、そして藤本氏が何度も重ねた試行錯誤は、不特定多数の評価や賛同ではなく誰よりも自分を納得させるための行為のように感じられた。

「THE CENTER OF A CENTER」ひとつの中心のその中心
©Lawrence Weiner, 2020
Courtesy of TARO NASU
現代社会は成長や便利さを求めて加速し続けてきた。情報はより早く多く届けられ、進歩はより早く細かく行われた。ブランディングとナラティブに共通される“わかりやすさ”は、メッセージを相手に早く届け、そして早く行為させる──加速時代に求められるコミュニケーションの処世術だった。それは時代に合ったものとして価値を感じつつ、違うものがいま求められてきているのもまた事実だろう。
多くの人と共有し得る耳障りのいいことばで訴えかけるブランディングも、プレゼンテーターが私的に強く語りかけてくるナラティブも、いずれにおいてもぼくらは受動的な聞き手である。わかりにくくても、多くの人に届かなくてもいい、いま必要なのは自らのことばによる語り直しで、それが主体性や自己肯定感の獲得に至るのではないだろうか。自分にしかできない人生を、自分が過ごしていると自認できるのではないだろうか。
コンビニエンス・ナラティブ[便利な物語]からセルフビルド・ストーリー[みずからの語り]へ。長考しながら、何度も模型をつくりながら、しどろもどろに伝えていくことの愛おしさを、改めて考えている。それこそが、自分が生きている限り続編が更新されていく、少なくとも自分といういちばんのファンには消費されない、唯一無二のナラティブなのではないだろうか。
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writer |
田尾 圭一郎

「田尾企画 編集室」代表、慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス 特別招聘准教授。アートの企画・編集・コンサルティング/2006年、国際基督教大学卒業。博報堂を経たのち、美術出版社「美術手帖」ユニットにて企業や自治体とのアートプロジェクトの企画、地域芸術祭の広報支援、雑誌・書籍の編集、展示企画などに携わる。
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