
恥ずかしい話を冒頭でさらすと、この連載の掲載されている「8 Hachi Media」がどんな企業によって運営されているかちゃんと知らないできた。これまでは独り言のように好きに書くのを楽しんできたが、半年以上も続くにあたりいよいよ不誠実な気が(いまさらだが)してきたのと、徒然にくだを巻くなかにも必然性のようなものを見出しながら書きたいなとも思い、どんな事業をしているのか知りたく、ひいては工場見学に行かせてもらえないか、という打診を編集の方にしたところ、なんと快く了承をいただくことができた(仕事を増やしてしまい恐縮だったが、改めてこの場で感謝を述べたい)。
メディアの運営元である株式会社esaの工場は、新幹線でも飛行機でもない絶妙な旅路を読書とメールの返信で持て余す頃に着く、栃木県小山市にある。冒頭で事業内容のレクチャーを受けたあと、私(といくつかのメディアも工場見学に同行した)は工場特有の大仰な機械をひとつずつまわって工程の説明を受けた。日頃、ふらふらと旅をしたりタリーズでパソコンに向き合ったりのぼくにはどれもが目新しく、社会科見学のときに感じた興奮がよみがえってとてもたのしい時間を過ごすことができた(そして有意義でもあったかどうかは、この記事の成果が証明してしまうだろう)。

関西・大阪万博の象徴たる大屋根リングは1周で約2kmあるらしく、対角線の向こうともなるとはるか遠くに感じられて、遊歩道の様相をしっかりと見定めるのは難しい。ましてやその内側には奇天烈な造形のパビリオンが敷き詰められていて、そのふもとや隙間を有象無象の人がぞろぞろと流れている。世界は情報や刺激に満ち溢れていて、見るべきもの・目に入ってくるものがあまりに多い。それでも“リング”と言うからにはずっとずっと先まで道は続いていて、大きくぐるりと弧を描いてはいまぼくが立っているこの足元に戻ってくる、大きな輪をかたちづくっている。見えているわけではないが、それでもきっと道があると信じて、なんなら想像で多少補ったりなんかして、ぼくたちはリングになっていることを疑わない。

閑話休題。esaは、廃棄プラスチックの再資源化に取り組む会社だ。私たちが聞き馴染みのある“リサイクル”には、大きく単一と複合の2種類がある。ひとつの素材でできたプラスチックを再利用する単一リサイクルは技術的な難易度が高くなく多くの企業が参入しているが、複数の素材でつくられたプラスチックはその組成が複雑なため、これまで約60%が焼却や埋め立てによって(複合リサイクルと呼ばれながら)処分されてきた。esaは素材に対する深い理解と燃焼温度の繊細なコントロールによって、廃棄されたプラスチックを複合リサイクルとして再資源化することを実現し、サーキュラー・エコノミーの選択肢を提供している。
製造業の環境意識が高まるなか多くの企業から廃棄プラスチックのリサイクルを依頼されるようになったが、そのいっぽうで受け入れ側──つまり再資源化されたプラスチックを活用する企業──の裾野が広がっていかないのが課題らしい。本来なら廃棄した企業がそのまま再資源化したプラスチックを用いるのがシンプルかつ美しい循環を促すように思うが、大量生産・大量消費の時代が長かったせいか、その大きな循環を事業としてデザインできている企業は多くなく、受け入れ手探しが難航しているそうだ。営利に直結する製造から販売は熱心に取り組むが、廃棄と再資源化、そしてそこからの再製造といった循環の後半は、営利追求とは異なり社会的責任の意義が強いため、まだ優先度が上がりにくいのだろう(ヨーロッパでは、これらを国が義務化することで取り組みを促している)。


このとき私は、象を思い出した。東京都現代美術館の「岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here」展で展示されていた、象の粘土彫刻だ。彼は述べる。「彫刻にとって人体という主題が重要なのは、姿態のわずかな変化からさえ、外から加えられた力、感覚情報などの刺激に、感情、精神 が応答するさまざまな様態を読み取ることができるからだった。(中略)だが象はそもそもその全体がつかめない」。視覚だけでは見えている象の向こう側やボリューム感を把握することはできないだろう。のっそのっそと重たそうな挙動、分厚いタイヤのような肌に刻まれた皺、ぶらんとしならせながら鋭い音を鳴らす鼻……象を認識することの難しさとそれゆえに拡張される知覚と感性を、岡崎は楽しんでいるように感じられた。
まっすぐな地平線が、実は大きな球体を構成する曲線のほんのほんの一部だと、私たちは事実だと知っていてもなお想像することが難しい。見えないもの・見えきらないものに相対したとき、目の前のものをすべてと捉えずに何か大きな存在をイメージすることと、その無邪気な楽しさをこの作品は思い起こさせてくれる。

「岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here」展示風景(東京都現代美術館、2025年)
撮影:中川周
左から:《PHANTOM/象の徴》2025年、《PHANTASM/インド象の印象》2024–2025年
Courtesy of the artist and Takuro Someya Contemporary, Tokyo
できるだけ子供が起きてる時間に家に帰ろうとしている。玄関を開けると(そして眠くもなくお腹も空いてなくプリキュアを見ている途中でもない、機嫌がいいときには)子供が「おかえりー」と言ってリビングから駆けてきて、ぼくはふたりをギューっとする。右の手と左の手でふたりを胸に抱き寄せると、ぼくからはふたりの頭だけが見えて、肩から伸びたふたつの腕がぐるりとふたりの体を外周して、ちょうど真ん中のあたりで交わられる。ぼくの胸に顔をうずめるふたりに、この絡み合った両の手は見えないだろう。それでも、ぼくの腕につくられた輪っかはふたりをつなぎ止め、内側にひとつの世界をつくり、と同時にその外側にも世界があることを伝える。たとえ見えなくても、大屋根リングの、大きな象の彫刻の、製造と販売の向こう側には、きっと環世界が広がっているのだ。
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writer |
田尾 圭一郎

「田尾企画 編集室」代表、慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス 特別招聘准教授。アートの企画・編集・コンサルティング/2006年、国際基督教大学卒業。博報堂を経たのち、美術出版社「美術手帖」ユニットにて企業や自治体とのアートプロジェクトの企画、地域芸術祭の広報支援、雑誌・書籍の編集、展示企画などに携わる。
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