
それにしてもどうしたものなのか。昨年の12月からこの連載を通して天球観測を試みてきたが、ちっとも暮らしがゆたかに、クリエイティブにならないではないか。1月は自分のキュレーションする展覧会が重なり忙殺され、4月からは上の娘が小学校に通うようになり、家を出る時間が(つまりはぼくが朝食を用意する時間が)また早くなった。大量のプリントや複雑になる人間関係といった幼稚園とはちがう勝手に、子ども以上に親が戸惑い余裕のない毎日を過ごしている。リビングを這いつくばっておもちゃやご飯の食べこぼしを片付けながら、「本当に天球は観測できるのか?この先にゆたかな日常はあるのか?」と打ちひしがれたのも一度や二度ではない。

ゴールデンウィークに、大阪・関西万博2025を見に行った。会場を囲う象徴的な大屋根リングは、現地視察をした際に藤本壮介が宙空を見上げ、ここに大きな空があることを万国の人と共有することができれば、と考え設計されたという。

下から見上げると柱と梁の力強さが印象的だが、エスカレーターを上がって大屋根の遊歩道を歩くと、視界はそこに開ける。個性的な数々のパビリオンが眼下に広がり、世界が多様に溢れていることを私たちは体感する。歩道は波打つような高低がゆるやかにあり、その合間に種々の草花が敷き詰められている。リングの高いところで立ち止まり、ふと外側を振り返る。大阪湾やあべのハルカス、神戸のほうまでが見渡せて、広いと感じていたリングの内の、つまり多様な世界よりも、はるかに広い海が広がっていたことに気付く。私たちは、広い(認識を許容する狭義の世界としての)セカイのなかでいがみ合っては離れ、手を取り合っては近付いて、を繰り返している。セカイをつなぎひとつの大きな(存在世界としての広義な)世界として認識することを促す大屋根リングは、その造形のとおり環世界のようだ。様々な意見が飛び交い個を主張しながらもそれらもまた同じ世界でのできごとであると、眼下のパビリオンは、リングや万博に対する賛否の声は、奇しくもその相反する事実を可視化している。

そしてその向こう側に、超環世界とも呼ぶべき、もっともっと大きな海原が広がっている。それは私たちの地球に対する宇宙を暗喩するのか、それとも世界の平和や無私の境地を示唆するのか──手をかざし眼を細めながら向こう側を展望すれば、世界の奥の奥にもまた世界は広がっていて、ぼくたちの視野をジャンプさせてくれる。
上の娘を通学路の交差点まで見送ったあと、あるいは下の娘を幼稚園バスに見送ったあと、天を仰ぎ伸びをしながら自宅へと歩くのが好きだ。時間にしてほんの3〜4分だが、陽光をまぶたに、春のあたたかな風を頬に、目の覚める青空を大の字に広げる両手に感じる。朝食をつくり食べさせ歯磨きを促す、1分1秒を争う世界の向こう側が、空には広がっている。今日は晴れだ!
慌ただしい生活はなかなかに終わらない。いつになったら昼から缶ビールを開けて日向ぼっこする毎日が訪れるのだろうか。それでも空を見上げるとき、高いところから海を見渡すとき、ぼくらは想像ゆたかな超環世界を、たしかに観測することができるのではないだろうか。
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writer |
田尾 圭一郎

「田尾企画 編集室」代表、慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス 特別招聘准教授。アートの企画・編集・コンサルティング/2006年、国際基督教大学卒業。博報堂を経たのち、美術出版社「美術手帖」ユニットにて企業や自治体とのアートプロジェクトの企画、地域芸術祭の広報支援、雑誌・書籍の編集、展示企画などに携わる。
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