
半年ぐらい前からエッセイを好んで読んでる。それまではエッセイというジャンルをどこか遠ざけていて、誰かの個人的な日記を覗き見て何になるのか、もっと“正解”に近い知識を蓄えなければ、と焦っていたのかもしれない。けれど、なにか明確なきっかけがあったわけではないけれど、だんだんと“まちがい”のような人間臭さにこそ愛おしさを感じるようになり、そこに綴られていたのは、劇的な事件ではなく、朝のコーヒーの匂いや、窓から差し込む光の角度、あるいは誰かとすれ違った瞬間の微かな違和感といった、あまりに平々凡々とした、けど1mmだけ“想像”によってズラされた現実だった。
輪郭の決まりきった正論に囲まれて息苦しいとき、エッセイが提示してくれる日常に寄り添う“手触り”の感覚や、断定を避けた先の“余白”が、何よりも愛おしく感じられるのだ。
いま、日常と非日常の距離はかつてなく近づいている。ARやXRは視界に広がる現実に仮想空間を重ねるし、メタバースではオルタナティブな“現実”が展開される。SNSで流れてくる刺激的な映像は、実在するリアルのものとAIによってつくられたものとが混在している。2010年代の後半に“アート思考”が潮流に乗ったときには「創造性を持とう!」と叫ばれたが、いまや人は簡単に想像を創造することができるようになったし、“唯一無二な表現”こそが氾濫されている。
輪郭が曖昧になっている現実のなかで、非日常を提示してきたアートはその独自性を危ぶまれている。これまでアートが提示してきた“見たことのないもの”は、いまや手のひらのSNSのなかに溢れてしまっているのだ。そして、そのことへの対抗として、“リアルさ” への回帰が希求されている。例えばそれは筆触や作品の大きさ、空間的であることといった物理的なリアリティであり、制作/鑑賞している身体的な疲労感や長くじっくりとした変化を経る時間性からくるリアリティであり、またあるいはひどく個人的な体験や考えから出発する個別性というリアリティである。私たち人間という生物学的な現象の連続体にとって離れ難いものとして、リアリティが渇望されていると感じている。
アーティスト・井上修志の個展「VS」が、2025年12月に彼のスタジオのある千葉県山武市で開催された。井上は、建築と破壊、大規模な都市開発を繰り返す人間や、あるいは地震や津波といった災害から生命力ゆたかな回復に至る自然といった、創造と破壊をテーマに作家活動を行っている。本展で展示された、剥き出しに組まれた鉄骨の《日和山の階段を新しい視点まで延長してみる》や30トンものコンクリートと巨木による《石巻、流木》は、人間と自然の暴力的な拮抗を感じさせる。そしてそのなかでも《土地を掘って盛ってみる》は強烈な人間のリアリティを特に放つ作品だ。道端の草っぱに穴を堀り進め、その土砂を土嚢袋に入れて脇に積む。その深さは2mほどもあるだろうか、ところどころ地層が見え、木の根が露出し、水が湧いている。その行為がただただ続けられ残された痕跡からは、身体的な負荷やかけられた時間、荒々しい土や土嚢袋、そして掘り続けた作家の衝動性が強く感じられる。視覚的な“見たことのないもの”とは異なる絶対的なリアリティが、この作品からは放たれていた。

《日和山の階段を新しい視点まで延長してみる》

《石巻、流木》

《土地を掘って盛ってみる》
Photo by for all 若林勇人
“materiality”という単語は[物質性]といった意味でありながら、特に近年では企業など活動体のサステナビリティにおける[重要課題]という意味も持つ。このふたつの意味の重なりは、いま再確認すると感興を与えてくれる。メタバースで自分らしい生き方ができたとしても誰かと手をつなぎたい淋しさからは逃れられないし、XRによって自由な旅を楽しむことができてもやっぱり重いバックパックを背負って山を登りたくなってしまう。身体的で個人的な実感からくるmateriality[物質性]は私たちが人間的な営みを守っていくためのmateriality[重要課題]にいまなろうとしている。井上修志の作品に通底する生命性や、エッセイにある実に個人的な視座は、こうした[生きている実感という重要さ]としてのMATERIALITYを感じさせてくれる、現代社会へのアンサーのひとつなのだ。
次回の記事
前回の記事
writer |
田尾 圭一郎

「田尾企画 編集室」代表、慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス 特別招聘准教授。アートの企画・編集・コンサルティング/2006年、国際基督教大学卒業。博報堂を経たのち、美術出版社「美術手帖」ユニットにて企業や自治体とのアートプロジェクトの企画、地域芸術祭の広報支援、雑誌・書籍の編集、展示企画などに携わる。
ー シリーズ別に探す ー