
先日、子どもとシマシマ公園(正式な名称は別にあるのだと思うが、シマウマ模様がブランコに施されているとかで、我が家ではすっかりそう呼ばれている)に行き、砂場遊びをした。まず山を創り、川を創り、そしてまちを拓いた。砂場にはところどころに小石が混じっていたが、ぼくらはそれを除けず、山の裾野に広がる森や川と川の合流点といった地形の要所にして小枝を差し、「この石はカミサマだから動かしちゃダメだよ」と神社に見立てた。

「ここは港で海のカミサマがいるよ」「この神社がてっぺんになるように山を創ろう」──お昼になって小腹が空いてくる頃には、小石を起点とするそこそこの文明が砂場に拓かれていって、ぼくらはそれを満足げに見渡した。
宗教人類学を専門にする植島啓司は書籍『聖地の想像力』(集英社新書、2000年)のなかで聖地を9つの要件で定義している。少し多いが、すべて書き記してみたい。
01 聖地はわずか一センチたりとも場所を移動しない。
02 聖地はきわめてシンプルな石組みをメルクマールとする。
03 聖地は「この世に存在しない場所」である。
04 聖地は光の記憶をたどる場所である。
05 聖地は「もうひとつのネットワーク」を形成する。
06 聖地には世界軸 axis mundi が貫通しており、一種のメモリーバンク(記憶装置)として機能する。
07 聖地は母胎回帰願望と結びつく。
08 聖地とは夢見の場所である。
09 聖地では感覚の再編成が行われる。
富士山やガンジス川といった誰もが知る聖地はこれらの大半が当てはまっているとされるし、聖地と比較してよりキャッチーに多くの人に楽しまれている“パワースポット”にも、いくつかが該当しているように感じられる。
逆に言えばこれらの項目をなぞれば“聖地はつくれる”という仮説も可能となる。これまでたくさんの場所を旅し天球観測とともにそこからゆたかに拡張される想像や知覚の超越を遊んできたが、自分のなかに「感動的な“聖地”でないとそれはできないのか?日常のなんでもない場所で天球観測を展開することはできないのか?」といった問いも浮かんできていた。
砂場で行われたそこにある小石を起点にした聖地、そしてそこからまちを拓いていく行為は、植島氏の定義をもとに聖地を仮設することであり、家から徒歩数分のシマシマ公園という日常に天球観測を持ち込む試みでもあったのだ。

そして、拓かれた“まち”を見渡し、ぼくは次の問いに遭遇する。“聖地”は文明や歴史、宗教において重要な意味を持つが、この日常に仮設された“聖地(仮)”は、どういった意味をもたらすのだろうか?それはひいては、「現実社会において天球観測は何のために行われるのか?」という問いでもある。
よく議論されている幸福を感じさせるホルモンとしてドーパミン・セロトニン・オキシトシンの3つが挙げられる。達成や勝利によって分泌されるドーパミンは中毒性があり、「もっともっと」と追い続けることに違和感や疲れを感じることが増えてきた。これは自分の年齢的なこともあるが、資本主義の閉塞感に対して多くの人とも共感できるだろう。そこでスキンシップなどのつながりが生むオキシトシン、運動や日光浴など心身の安定によるセロトニンによって幸福をどれだけ感じられるか、ということに焦点が移り、移住やアウトドア、マインドフルネスが求められている次第である。
ここに天球観測は有効ではないだろうか。もし、人以外の植物や動物との共生を想像することができたら?星々やマントル、過去未来といった多様なモノたちとの調和を図ることができたら?超越的な“つながり”はオキシトシンを分泌し、東京を離れ移住することを決断できなくても虫が嫌いでアウトドアができなくても、幸福へと導かれるかもしれない。

別の角度から見てみよう。「人的資本と社会資本、そして経済資本の充実がウェルビーイングを導く」と語られているが、そこで言及される社会資本の“社会”とは一般的に人による集団的な営みを指している。だが、植物や動物といった非人間との“つながり”を観測(知覚)することができれば、私たちは社会資本をよりゆたかにすることができるのではないだろうか。
そこからまた経済資本を生んでいくこともできるだろう。太陽光や地熱発電への注目や産業におけるサステナブル需要はその序章ともいえる。今日にみられるエコ産業の多くは、直接的な自然エネルギーの活用や製造の効率化による持続可能性の追求といった類が多いようにみえる。だが、これがより天球的な“つながり”として──土にふれ、川の流れに見入り、マントルや星の動きを感じながら仕事に従事することができれば、共生の充足という社会資本の拡張と経済資本の成長を両立することができるのではないだろうか。それは、経済活動におけるサステナブルやエシカルといったイシューを次のステージへと導かないだろうか。
6歳と4歳、そして41歳によってシマシマ公園に拓かれたまちには、いろんなカミサマが暮らしている。海も山も、森もある。「ここにはどんな社会の営みが繰り広げられているのだろうか」と考えるぼくの体内では、きっとオキシトシンが分泌されているにちがいない。
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writer |
田尾 圭一郎

「田尾企画 編集室」代表、慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス 特別招聘准教授。アートの企画・編集・コンサルティング/2006年、国際基督教大学卒業。博報堂を経たのち、美術出版社「美術手帖」ユニットにて企業や自治体とのアートプロジェクトの企画、地域芸術祭の広報支援、雑誌・書籍の編集、展示企画などに携わる。
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