
友だち家族4世帯(ひとり身からカップル、子連れに、家族の愛着がないせいか独りで行くことになった自分も含めて様々だが、この際割愛する)で宮古島に行く機会があった。美味しいもの巡りや地元の泡盛にクラフトビール、そして翠の海と抜ける青空を満喫して、ぼくらは最終日に海沿いの浜辺でBBQをした。

お腹が少し落ち着いてくだらない話も一巡した頃、ぼくはトイレに行くふりをして、とぼとぼと真っ暗な海に入って行き、ぷかぷかと浮かばれて夜空を眺めた。まぶしい月は避けよう、雲が目の前を流れていくのを待って、その隙間から星を見やる。波のチャプチャプという音のまにまに、友人の笑い声が聞こえてくる。誰の声かはわからない、どんな話題かもわからない、その距離感がそのときのぼくには心地よく感じられた。

人付き合いが苦手な者同士で会話をしていると、「飲み会は何人まで許容できるか?」という話題になることがある。大人数だと短時間で場の空気を掴む大声とキャッチーさが求められてそのマッチョイズムに辟易するし、かといって二人だと沈黙が窮屈に感じられて(その沈黙や人付き合いの苦手さを共有できる相手でない限り)荷が重く感じられる。そこでぼくらは3人がベターなのかそれとも4人なのか…といった(実にくだらない)議論をすることになる。こうして人付き合いに過敏になってぐったりしているぼくらが取り入れるのが、距離感の概念だ。大人数でいても心理的な距離をとることでその大声は聞こえなくなり、ある限られた人との会話を時限的に選択し、と同時に他者との会話を望まないことを意思表示することで(いわゆる“話しかけないでモード”というやつだ。これをスマートにできることが経験値のなせる技だろう)、距離感を操作し、選べない状況下においてつながる相手を選びストレスを軽減することになる。
この考えを拡張すると、ぼくらはここにいない人と共に飲むことができるようにもなる。目の前にいない誰かの考えをなぞりそれに応答することで、共にいることを仮設することができる。このわかりやすい例が葬式だろう。誰かの死を受け止めきれないとき、その故人と“人付き合い”できないぼくたちは集まり、缶ビールを開けてその人の失敗話やくだらない話に花を咲かせては笑い飛ばす。あるいは同窓会なんぞもわかりやすいかもしれない。“クラスでいちばん可愛かったあの子”の話で盛り上がり、その子がいまどんな仕事に就いてるか、どんな人と結婚してるかを想像する。
この連載で追ってきた事例を振り返れば、広大で何百年続く熱海の海も、バストリオに見たマルチバースな世界知覚も、八百万の声を聞く日華石の舞台も、メゾン・アウルの刹那の営みも、いずれにも通する“何か大きなもの”に抱かれている共在の感覚は、そこにいない誰か(何か)と共に飲む感覚と近接している。
いまいちど、海に浮かぶぼくの目の前に広がる星空に話を戻そう。果たして、星は星座であることを自覚するのだろうか?何光年も離れている彼らは地球からは数cmの間隔に見えて、魚や獅子の形として線で結ばれている。見る者の意識ひとつで、星は孤独な点になり語り継がれる星座にもなる。他者とつながり、意味を持つ。星と星座において、物理的な距離は重要でないのだ。

アートには“installation[インスタレーション]”という作品ジャンルがある。“install[設置する]-tion”という語源の通り空間の内部に展示される作品を指すが、それに対して星座を意味する“constellation[コンスタレーション]”は“con[ともに]-stella[星]-tion”という語源を持ち、外部との接続を示唆している。アート業界にいると日常的に耳にする“インスタレーション”は空間のなか──つまり(先の話をなぞれば)飲み会の会場という空間における関係性を指すが、星座とは物理的な距離の影響下にある関係性ではなく、何光年をものともしない見る者の視座(葬式に集まる人、人付き合いの苦手な人、大自然のなかにいる自己)から解釈され見出される意味であり、そこに距離感という概念は関係がない。名も知らない小さな羽虫とも連絡のつかないクラスのあの子ともお別れを言えなかった故人とも、星座はつながり得る可能性を秘めている。
天球観測は、人付き合いのできない孤独なぼくたちが、それでも孤独でないと生を肯定するための、つながりを飛躍させる術なのかもしれない。
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writer |
田尾 圭一郎

「田尾企画 編集室」代表、慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス 特別招聘准教授。アートの企画・編集・コンサルティング/2006年、国際基督教大学卒業。博報堂を経たのち、美術出版社「美術手帖」ユニットにて企業や自治体とのアートプロジェクトの企画、地域芸術祭の広報支援、雑誌・書籍の編集、展示企画などに携わる。
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