
東京国立近代美術館「記憶をひらく 記憶をつむぐ」展は、これまでの企画展と比べて少し特別な展覧会だった。同館が所蔵する戦争画を中心に、文学や音楽など同時代の他芸術、資料も併せて展示することで、当時に醸成されていた空気や価値観が立ち上げられた、ふくよかな展示だった。充実した展示内容だけでなく、戦後80年を記念する年の夏に開催されたこと、宣伝が行われず(来館を闇雲に煽るのではなく)実直な鑑賞が求められたこと、そして明確に企画側の意図(願い、と言い換えてもよいかもしれない)が示されていたこと。とても丁寧に企画されたであろうことが想像された。

終戦から80年ともなると、太平洋戦争の経験者は限りなく少なくなっていく(今年で92歳を迎えるパートナーの祖母は、挨拶に訪れると戦時中の出来事を歴史や記録ではなく個人の記憶として語り、ぼくを戦かせてくれる)。戦争の記憶は、「残す」だけでなく経験していないぼくたちがどのように解釈し継いでいくか(と同時に、現在進行形で起きている戦争にどう向き合うか)、という“戦後”とはまた異なるアクチュアルさを帯びてくる。本展のタイトルには、そんな願いが込められている。
展覧会自体は様々な論点を持っているが、ここでは“連帯”ということばについて考えたい。自己の個別性に固執せず、協調することで和を尊びともに前進すること──国際関係だけでなく個と個においてもそうした意識が、戦後尊重されている。

展覧会の後半に展示されているベトナム戦争も、“連帯”を想起させる事象のひとつだ。1960年代後半、学生たちはベトナムとアメリカの戦争を見てかつての太平洋戦争を想起し、平和のための声を挙げた。海を隔てた他国の戦禍に想像力をはたらかせ掲げられた連帯の拳は、いま、ユーラシア大陸の遠い反対側で続いているウクライナとロシアの戦争や、パレスチナとイスラエルの戦争を前にどこを向いているだろうか。(暴力に代えられた当時の学生闘争のすべては肯定できないにしても)私たちは当時のような切実さをもって“向こう側”を想像できているだろうか。
いっぽうで“連帯”は危うさも伴う。満州国の「五族協和」や大東亜共栄圏の目指した共存共栄に対する違和感も、私たちは考えねばならない。一見、これらのスローガンは和平的に隣国を慮ったことばに見えるが、第三者に一方的で大きなストーリーが与えられたことに、実際的には支配が企まれたことに、各国は反発した。この両者の“連帯”のちがいとしてある、個別性を認めながら他者に歩み寄り協働する状態とは、いったいどんなだろうか。

先日、J.S.バッハ「ゴルトベルク変奏曲」の全曲演奏会を聴きに行った。よく仕事中に延々とリピート再生する曲で、いちど実際に聞いてみたいと強く思っていた。この変奏曲は、冒頭と最後のアリア、そしてその間にある30の変奏曲による、全32曲で構成されている。さらにこのアリアは32小節で構成されており、続く変奏曲もまた32音の主題に基づいて展開されている(初版の楽譜も32ページとなっているらしい。。。!)。数学的で堅牢な構成の世界でありながら、一つひとつ弾かれるスタッカートの音の粒と、それによってアーキテクトされていく曲、そして変奏曲の全体性──そのミクロとマクロの宇宙観を同時に感じられた感興に、恍惚としたままあっという間に演奏時間は過ぎていった。
もうひとつ、ちがう話をする。近頃、投資を楽しんでいる。芸術好きのご多聞に漏れずなんとなく“お金稼ぎ”の印象にいいイメージを持てず敬遠してきたが、ふとした気付きから楽しく感じられるようになった。国内株だけでも約4,000もの企業の価値が、毎日9時から15時30分のあいだ、政治や経済といった社会のあらゆる諸要素と、そこに群がる人々によって右往左往する。一見関係ない企業とニュースが連関しながら上がったり下がったりを不規則に更新する株価チャートは、まるでコンテンポラリー・パフォーマンスのようだ。実際的でない“解釈”によって企業の価値が二転三転する様も、現代アートのマーケットを見ているようで親近感さえ感じる。

私たちは、時代の価値観とともに「1」であることを求められてきた。高度経済成長の名のもと競争の盛んな時代には「no.1(最も優れていること)」が求められ、バブルがはじけ経済の停滞と悟りが促された時代には「only 1(唯一であること)」となることで自己の肯定が図られた。シャットダウンして孤立した私たちが”WE”を唱えたことは記憶に新しいが、大統領選挙を思い返すに自分のものではないわかりやすい物語に巻き込まれていく怖さもまた私たちは感じた。
大きな30年スパンでそうした価値観が形成されているときに、いまの時代は「could be 1(ひとつであり得ること)」が希求されている。
私たちが一人ひとり創造性と多様性を持ち得た”ひとつ”であること。さらには、分断された考えの異なる向こう側の人や組織、国のあの人たちも、立場がちがうだけで私たちとおなじ存在かもしれない──という”ひとつ”であることの可能性。個別のひとつであり共生するひとつである──そうしたどちらの”ひとつ”にもなり得る想像力を持つことで、私たちはレジリエンスのあるゆたかな生き方を選ぶことができる。
打鍵されたその一音は、32音の主題のひとつであり、32小節の一部であり、32の変奏曲の一片かもしれない。政治家の何でもない不適切な発言は、ある企業に暗雲を落とし、そこに賭した個人投資家を落胆させ、国の消費同行を下向きにするかもしれない。歴史も音楽も株価も、個でありながら別の個と連帯しまたちがうひとつになり得るかもしれない、という解釈の天球観測が、世界を再構築する。
その可能性は、“いま・ここ”の閉塞感を打破し、“かもしれない[could be]”という未来への選択肢を確保してくれる。ぼくもまた、まだまだありたい姿を強く想像し手を動かすことで、変われるのだ。
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writer |
田尾 圭一郎

「田尾企画 編集室」代表、慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス 特別招聘准教授。アートの企画・編集・コンサルティング/2006年、国際基督教大学卒業。博報堂を経たのち、美術出版社「美術手帖」ユニットにて企業や自治体とのアートプロジェクトの企画、地域芸術祭の広報支援、雑誌・書籍の編集、展示企画などに携わる。
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