Hachi Medida

中野ブロードウェイのその先 

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ー 天球観測のはじめかた ー     

大きくやわらかく世界を知覚することで、人間中心主義の現代社会を脱しおおらかに生きることを編み直せないだろうか。多視点、非人間、プラネタリー……社会の見え方を揺らす現代アートとともに、世界認識の体系化を試みる連載コラム。

vol.2は中野ブロードウェイの先で鑑賞したバストリオ「新しい野良犬 / ニューストリート ドッグ」。その水平空間で体験した空間的かつ多層的な世界について。


いままで生きてきて、中野という世界はブロードウェイまでだと思っていた。北口からまっすぐ伸びるサンモールという商店街を通って、突き当たりにあるサブカルチャーの巣窟。キャラものがところ狭しと並ぶ本屋、ベタなブランド物の中古品店、怪しさしかない占い屋など、それはそれは青臭い時分に表現の奥ゆかしさを教えられたものだ。それらはぼくにとって中野のすべてだったから、きっとブロードウェイのその先は真っ暗な奈落になっていて、覗こうとも思わない。その向こう側にある大久保の韓国人街や眠らない歌舞伎町とつながってるだとは、ぼくはついぞ知らずに暮らしてきたのだ。

だから中野の“水性”というスペースで演劇が行われる、と聞いたときはパッと浮かばなかったし、google mapに指し示されたピンを見ても、周囲の景色が浮かばなかった。そもそも「水性」って変な名前。

中野ブロードウェイを通り過ぎ横断歩道を渡った少し先にある水性は、クリーニング屋の跡地をリノベーションした場所で、入口のガラスドアが大きく通りに開放されている。そのため演劇を見ていると、道を歩く高齢者や子供がキョロキョロと訝しげに店内を覗いてきたり、ときには何をしているのか話しかけたりしてくる。

ぼくが見に行ったバストリオ「新しい野良犬 / ニューストリートドッグ」という演劇もまた、この開放口を全面に生かした内容だった。劇はそれぞれの登場人物が情景を回顧していくかたちで、章立てで進む。回顧のなかには他の人物が参加し、それはときにつながり重なる。楽器を奏でればその音楽が、料理をすればその香りが媒介となって、私たち鑑賞者の感性は世界を立体的に知覚していく。またあるときは演者ではないスタッフが劇に介入し、水をコップに注ぎ込み空いたペットボトルを投げ捨てては、作品世界にノイズを起こしていく。そして入口の向こう側にある現実世界と呼ばれるべきものは劇に関係なく存在していて、かと思えば演者が路上に飛び出してキョロキョロしたり走ったりをして、干渉をはじめる。

撮影:小池舞

google mapでは東西南北で示されるこの水性という平面空間に、あまりに空間的かつ多層的な世界が立ち上がっていて、その輪郭線を確かめようとするかのごとく、匂いや音、声が劇で発露されていく。それはぼくたちが便宜上“現実と呼んでいる”世界よりもはるかに実感にあふれた、感性が全方位に開放されていく知覚世界だ。野良犬──何ものにも属さず縛られずただ純粋な「生きる」とは、かくもこう自由なのだ。

撮影:小池舞

太陽や月、星など宇宙にある物体の総称を“天体”とするのに対し、それを観測者の視点から組み立て直した球体空間は“天球”と呼ばれる。現代だと天球儀やプラネタリウムが確固たる天球として扱われるけれど、歴史は古代から、宇宙を想像しては天球を表現しようと何度も試みてきた。その妄想力たるは実にゆたかで、ある人は地球が真っ平で、地面が突然終わり奈落に海水がなだれ落ちると想像し、またある人は、蛇、亀、さらには象の背中の上に我々の地球があるのではと考えた。そこにあるのは、物理的な現実らしさを超えた想像のゆたかさやナラティブ性だったのではとぼくは思う。

鑑賞しながらそんな天球の歴史が思い出されたのは、「新しい野良犬」という作品が、演劇を規定する物理空間と直線的な時間軸に加えて、知覚や感性、空想と現実といった多層世界(下図参照)をぴょんぴょんと飛び回っていたからなのだと思う。この劇は、“現実”の先入観を笑い飛ばし、いびつで滑稽な天球をもう一度妄想しようとしているのだ。

演劇「新しい野良犬」をめぐる多層世界

かくして中野ブロードウェイの先に、世界は立ち上がった。

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田尾 圭一郎

「田尾企画 編集室」代表、慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス 特別招聘准教授。アートの企画・編集・コンサルティング/2006年、国際基督教大学卒業。博報堂を経たのち、美術出版社「美術手帖」ユニットにて企業や自治体とのアートプロジェクトの企画、地域芸術祭の広報支援、雑誌・書籍の編集、展示企画などに携わる。

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